平安京を築いた桓武天皇

桓武天皇は光仁天皇と大陸からの渡来人・高野新笠の間に生まれた皇子。

45歳になった桓武天皇は父の後をついで平城京で即位後、全国統一と新しい都の建設につとめました。

しかし、新しく長岡京に遷都を行ってもおさまらない凶作や飢饉。

また、天皇の右腕・藤原種継暗殺の嫌疑が掛けられた早良親王が、身の潔白を訴えて命を絶つと、

今度は桓武天皇の母親や皇后、皇太子などが病に斃れてしまいます。

加えて、念願の統一王朝も蝦夷の前に敗れ天皇の念願は叶いませんでした。

そこで、縁起が悪いと桓武天皇は再度都を変え、今度は平安京建設が始まりました。

平安京建設に駆り出されたのは農民たちがメイン、なので農作物を作る担い手不足でさらに食糧事情が悪化。

仕舞いには懐刀の藤原緒嗣に「大君、国は混乱しています。戦と新都建設はしばらくお休みしましょう」と言われちゃいましたとさ。

桓武天皇のひ孫に高望王という名前の皇族がいましたが、この方は皇族をやめて平の名を賜り、桓武平氏の先駆けに。

平将門や平清盛なども桓武平氏の流れを汲んでいます。

巨大な神殿を築いたラメセス二世

ラメセス二世は紀元前13世紀ころのエジプトの王です。

自らを太陽神の神アラーの化身と呼び、エジプト全土を配下においていました。

ラメセス二世は鉄製の武器を持つヒッタイト王国と戦いこれに敗れましたが、強さを鼓舞するためナイル川沿いのカルナック神殿に「エジプトの大勝利」と刻ませたことは有名です。

岩壁の前で腰かけている数体の石像をみたことが皆さんもあると思いますが、あれはラメセス二世が彫らせたもの。

今でもナイル河上流のアブ・シンベル神殿跡には高さ20メートルある4体の王の座像が威容を誇っています。

なかなか人の言うことを聞かなかった王でしたが、王妃にだけは別でラメセス二世の在位が67年続いたのは彼女の功なのだと・・・

やっぱ、男は女性の尻に敷かれていた方がいいのかも??!!

藤原氏開祖 藤原不比等

藤原不比等は中臣鎌足の子供。

中国を模した律令政治を推進するため、養老律令や大宝律令などの編纂を手掛け、

また、天皇を補佐して平城京遷都を断行。

藤原不比等は娘二人を文武天皇や聖武天皇の妃にして朝廷との絆を深め、自らの権勢を揺るぎないものにしていきました。

藤原氏のルーツは死の床で藤原の姓を下賜された中臣鎌足ですが、一族の礎を築いたのはこの不比等です。

「比べる者がいない」という名前が揮ってますね。

罠に落ちた 長屋王

長屋王は謀反の嫌疑をかけられ妻子ともども自害に追い込まれた悲劇の左大臣。

天武天皇の孫として宮廷では相当な権勢を誇っていましたが、これを目の上のたんこぶ視する藤原4兄弟に仕組まれた・・・との見方が大勢。

長屋王尾の屋敷跡からは多数の木簡が出土しています。

中には贈り物の内容を書き連ねた木簡などもあり、往時の貴族の華やかな暮らしぶりを知ることができます。

万葉集歌人 山上憶良

山上憶良は遣唐使で唐に渡った奈良朝廷の役人。

役人をしながら大伴旅人の歌に感銘を受けて歌の道を志しました。

憶良の代表作・貧窮問答歌に代表されるように、彼は税金の取り立てに苦しむ貧しい農民について多くの歌をつくりました。

万葉集の中には彼の歌が70作程度残されています。

唐招提寺を開いた 鑑真

鑑真は唐招提寺を開いた中国からの渡来僧。

仏教政策を推し進める聖武天皇は中国の唐に栄叡などの僧侶を派遣して有名な僧侶をヘッドハンティング。

鑑真は日本への渡航に5回挑戦しますが、天候不順やいざかいなどですべて失敗。

そして、6度目のトライでまたも嵐に襲われましたが、今度は運よく九州の端っこ、薩摩国坊津に漕ぎ着けることができました。

聖武天皇と光明皇后にまみえた鑑真は二人に戒律を授け、彼のもとでたくさんの僧侶が修行をしました。

しかし・・・日本の中にも行基のような立派なお坊さんがいたのに、聖武天皇はなぜ中国に僧侶を求めたんでしょうね。

温泉の発見者 行基

行基は奈良時代の僧侶で各地に温泉を発見したり、聖武天皇の肝いりで進められた大仏建立にも多大な貢献した人。

この時代はまた平城京に遷都を行った時代でもあり、新都建設のために全国からたくさんの人たちが都に集められました。

しかしながら当時の食糧事情には大変厳しいものがあり、彼らが家路をたどるころは食糧が尽きて途中で行き倒れになる人も。

このため、路上には飢えや当時流行した伝染病により死者の山が築かれるようになりました。

これに心を痛ませた行基は、各地の豪族を回って支援を要請。

死者の中で農民もかなりの数を占めていたので、豪族たちも自分の口のりを心配し始めることになったんです。

こうして行基のもくろみ通りに事が運び、彼はたくさんの支持者を得ることになりました。

行基は彼の信奉者を動かした各地に橋や道をつくる土木工事も手掛けるようになりました。

朝廷はそんな行基の人気に不安を感じ始め、彼の行動に干渉するようになります。

しかし、大仏建立が始まると、多くの人手が必要となったので、朝廷(聖武天皇)は行基と和解。

このように行基はとても影響力の強いお坊さんだったんです。

大仏を建立した 聖武天皇

聖武天皇は701年から756年まで在位した天皇で、仏教を広める目的で全国に国分寺と国分尼寺の建立を命じました。

また、東大寺の大仏も聖武天皇の発願によるものので、大仏が開眼するまでには行基や大陸から渡ってきた鑑真なども関与しています。

聖武天皇がこのように仏教を厚く信仰することになったのはなぜでしょうか。

それは、相次ぐ皇子の死、そして藤原4兄弟の陰謀によるとされる長屋王の死。

謀反の疑いをかけられた長屋王は左大臣という重要なポストにありましたが、なにせ聖武天皇は藤原不比等の娘・光明子を皇后として迎えていましたから強いこと言えなかったんでしょうね。

そして長屋王の呪いとも噂される藤原4兄弟の相次ぐ死、きっと聖武天皇は不吉な連鎖の力を感じたに違いありません。

それに加えて、疫病、日照りによる農作物の不作・・・・などなど、これが天皇を大仏建立に駆り立てた原動力になったと言い伝えられているようです。

752年4月9日、10年以上の歳月を要した大仏の開眼式、聖武天皇(この時はすでに娘に天皇の座を譲り渡して上皇になっていました)どのような思いで大仏と対面したんでしょうね。

筑紫の 磐井

筑紫の磐井は中央に反旗をひるがえした地方豪族。

筑紫をはじめ、広く北九州一帯に勢力を持っていた磐井は新羅と交易がありました。

継体天皇の治世527年、日本は朝鮮半島に食指を伸ばしますが、この時磐井は新羅と手を結んでこれを阻止。

一般に磐井の乱とよばれているこの内乱はおよそ一年余り続いたのちにようやく終息。

福岡県八女市の岩戸山古墳が磐井の墓ではないかと言われています。

倭の五王  雄略天皇(ワカタケル)

雄略天皇(ワカタケル)は5世紀の後半に存在していたとされる日本の天皇。

倭の五王の中で一番最後の武が雄略天皇ではなかったかと考えられているそうです。

「我が国の祖先は武力で国内を統一し、朝鮮半島に勢力を広めようとした」との内容の手紙を中国の皇帝に送りつけた猛者がこの人。

埼玉県の稲荷山古墳と熊本の江田船古墳からこの時代の剣が見つかっていますが、それらには雄略天皇と思しき人物の名前が刻みこまれています。